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TERAOKAの歴史・はかりの歴史|What's TERAOKA
ローマ時代に発明された棹ばかりはテコのバランスの原理
 現代人の多くは意識しませんが、「はかる」技術は文明の基本です。長さや角度がはかれなければ、ピラミッドのような巨大建造物は造れません。はかる対象は空間だけではありません。温度もあれば重さもあります。いろんなはかる道具があり、「はかり(秤)」は重さをはかります。古代から金銀、胡椒の取引に必須なのがはかりでした。ローマ時代に発明された「棹ばかり」は近代まで使われ続けた偉大な発明品でした。
 現代なら小学生でも原理はわかります。テコの原理です。一本の棒の真ん中をひもで結び、つり下げます。片方に500グラムの分銅を置く。もう片方に皿を置いて肉を入れていく。重さが釣り合えば(棹がまっすぐになれば)、肉500グラムというわけです。はかりを英語で「Balance」というのは、棹ばかりの原理がバランスだからです。
 じっさいの棹ばかりは、棒に刻みが入れてあり、ひもの位置を移動させる(支点を変える)ことで、分銅を変えなくても、200グラム、300グラム、700グラム、800グラムとさまざまな重さを計ることができます。また分銅を変えることで、小さな重量も大きな重量にも対応できます。 明治、大正というと、もう80年以上の大昔のことですが、そのころの日本や世界では、この棹ばかりが商取引に使われていたのです。
棹ばかりという常識に異議を唱えた寺岡豊治
 そんな常識とも思える道具に異議を唱えた人物がいました。「いや、もっと正確で使いやすいはかりがあれば、人々はその便利さに必ず喜びの声を上げる」。そんなヘンなことを思いついたのは、寺岡精工創業者の寺岡豊治でした。
 1878(明治11)年、福岡・柳川藩の士族の家に生まれ、苦学しながら東京の英語学校を卒業。帰京後に教壇に立った後に、「これからの日本は工業立国の道」と考えて、単身渡米(26歳)。カリフォルニア州立大学で機械工学を6年間学びました。帰国後にすぐさま会社を設立(32歳)。以来、計算機、タクシーメーター、自転車チェーンを製造販売、発明資金作りのために自動車学校、月賦住宅販売会社も手がけた、いまでいう「起業家」でした。
 しかし事業はことごとく失敗します。失敗にへこたれないのが、明治の男の気性。寺岡豊治は、新しい原理のはかりを開発します。重さによって凹むバネの原理です。このはかりは商業用バネばかりとしてはわが国初。「朝日衡器製作所」を設立して日英米独仏と5カ国の特許を取り、1928年(50歳)に発売を開始。「寺岡式敏感自動秤」は飛ぶように売れました。しかし社内の内紛に嫌気がさした寺岡豊治は社長の職を辞してしまいます。
20歳にして温度に影響されないバネを考案した寺岡武治
 このころに豊治の息子である寺岡武治が、現在の寺岡精工の前身となる寺岡研究所を1934年に設立していました(武治19歳)。
 寺岡武治はバネばかりの重大な欠点に気づいていました。金属バネの伸び率は温度によって変わるので誤差が生じます。「何とかこの問題を解決しなければならない」。しかし開発は難航し、武治は「この開発には高度な専門知識が必要」と痛感し、東北大学金属材料研究所の聴講生として学び直すことを決意します。金属材料研究所は通称「金研」と呼ばれ、現在も世界的な材料の研究所として有名です。
 そして本多光太郎博士に師事した1年後の1935年(20歳)、ついに日本初の「温度誤差補正装置バイメタル」を考案、続いて「不感温度マスターバネ」の考案にも成功したのです。ここから寺岡精工の歴史が本格的にスタートしたのです。
はかりのオンリーワン企業から、電子化という競争する舞台へ上る

 その後に寺岡精工は多くの新製品を手がけます。戦争中は海軍用の精密測定器マイクロメーターや精密ネジ切り盤を開発、1940年に戦争が終了するとふたたび民生品を手がけて1947年に電池1個で半年動く日本初の「電池式時計」、1954年に日本初の自動巻きカメラ「オートテラ」、1960年には純電気式制御方式によるオート・ドアエンジンを完成させています。
 もちろん原点であるはかり事業も順調でした。1962年の業界初のグッドデザイン賞を受賞、1965年には世界初の「電子料金秤」を発表。商品を秤に載せると同時に料金が計算され、デジタル表示する画期的な秤です。いまでは当たり前に思えますが、40年前にはみんなが驚いた製品でした。
 そして1970年に電子料金秤「繁栄」発売開始、1971年にはフランスへ「繁栄」を初出荷、1973年にはかりのイメージを一新した電子料金秤「DIGI」発売、1976年ラベルプリンタ「DPS-8000」発売、1978年国内初のロードセル式電子料金秤「DIGIマーク2」発売。そして1979年には電子料金秤とチェックアウトプリンタを組み合わせ、計数管理を可能にした計量POSシステム「SM-20」発売。
 この時期に寺岡精工は大きな舞台に上りました。60年代から70年代にかけて、寺岡精工が取り組んだのは「電子化」です。電子化によって「はかりの寺岡」はPOSなどのストアソリューションの企業に変貌したのです。
 それまでの寺岡精工は、はかりの独占的なオンリーワン企業でした。しかしはかりが電子化され、ラベルプリンタ、包装機、コンピュータとつながるようになると、それらは「いままで存在しなかった」製品であり、市場です。巨大ですが、ライバルも多くなります。電子技術はだれもが使える技術だからです。そこから寺岡精工は競争を意識するファイターに変貌していくのです。 巨大な電気メーカーがライバルとして登場し、今日まで競争が続いています。負けないためには攻めしかありません。大きい舞台で戦うのだから、真似では勝てません。ライバルたちがしないことをやる。思いつかないアイデアをカタチにする。国内だけでなく、世界にも進出していく。そういう積極的な気風は70年代の電子化によって、寺岡精工のDNAになったのです。

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